瀬戸川
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10-01 郷分石原 芦田川
10-02 郷分境
10-03 郷分草木 芦田川
10-04 山手矢田 福川  瀬戸川
10-05 津之郷本谷 本谷川 瀬戸川
10-06 加屋厳嶋神社 加屋川 瀬戸川
10-07 津之郷加屋 加屋川 瀬戸川
10-08 赤坂中組 河手川 瀬戸川
10-09 瀬戸山北 河手川 瀬戸川
10-10 志田原 山田川 論田川 瀬戸川
10-11 観音原水落 山田川 論田川 瀬戸川
10-12 地頭部法界橋 瀬戸川
10-13 王子原池 猪之子川 瀬戸川
10-14 長和栗ヶ迫 猪之子川 瀬戸川
 現在の大渡橋の百米ほど上手に渡し船がありました。大川を渡って中津原下組へ上がり、鶴ヶ橋へ通じる近世山陽道です。
 芦田川には大渡橋も山手橋も鷹取橋もなかったのです。明治の初め山手橋が民営で出来るまで洪水のときには山陽道の道中は狐平(きつねびら)の峠を越えて遠く宣山(むべやま)を迂回していました。
 渡し守のご子孫は大渡橋の袂に住んでおられる柏原さん。おばあちゃんは大勢のお客のときは、子供達は舟小屋へ追いやられたことを話して下さいます。
 渡しに在った常夜燈はいま乗弘神社の境内で現役時代を回顧しています。
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 昭和の大改修が始まるまで芦田川は、このあたりで川は二條ないし三條に岐れていたようです。洪水のときは田んぼの上を濁流が越していたものです。
 濁流は花土(はなつち)を残してくれるので、稲の生育には有り難い面もありました。

 石原の藤坂正一さんは、芦田川改修工事の写真を保存しておられます。土手の内側でいま川床になっている辺りは水田が広がり民家もありました。この川底には縄文ー中世の草木遺跡が埋もれています。
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 車がなかったころの昔の道。ここが芦田川の川岸に近かったところ。無銘ではあるが、社寺の献燈ではないので川舟のための目印と見られる。
 花崗岩よりずいぶん固い流紋岩で作られた土台の石垣に、苦労して作った盃状穴が数個。相当な根気だ。

 常夜燈の呼称では竿というが、軸の部分の形が竿とは言い難い特異な形をしている。舟の帆に見立てたのであろうか。
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 文化九年はこの手常夜燈が備後各地で建てられ始めた頃です。
ここが芦田川の川岸であったと考えられます。

 神社のそばにあるので、神社の獻灯と考えやすいが、鳥居は古く享保の銘刻があり、この常夜燈のみが異質な感じがします。
 常夜燈の右肩にかすかに文字があったことが解ります。転写調べの跡がありますが、勇鷹神か何かの銘刻があったかも知れません。
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 本谷川はもともと加屋川の支流というようなものではなかった。
 一気に谷尻(たんじり)のバス停あたりの底湿地へ流れ出たものです。川替えが禁止されてから、流れ出た土砂は天井川を形成しました。
 津之郷農協を五百米ほどの上流にあるこの常夜燈は、谷を挟んで坂部・本谷の集落を土砂流から守ってくれています。

 當村惣鎮守の文字がいかめしい
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 厳島神社の石段左に自然石の常夜燈がある。ほかの燈籠とは異質なので、よく見ると土台石に盃状の凹みが多く見られる。これは川岸にあった証拠。
文化十五年という時代は神社とは別にこういう常夜燈がたくさん作られた。

 厳島神社勧請の昔は、この辺りが海であっただろうが、、この常夜燈は多分加屋川沿いにあったものが、道路改修で邪魔になり、ここへ移されたもの。
 
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 勇鷹神は、福山に城を築いてから後、福山藩の治山治水に大変力を注いだ殿様・水野勝成を神と崇めた称号。

 常夜燈の下の田んぼで働いておられた老婆に声をかけました。
「おばあさん、ここは昔から田んぼじゃあ無かったろう?」
「へぇ昔ゃなぁ沼じゃったんよ」
「そうじゃろうなぁ。沼じゃった前やぁ澪(みお=水脈)じゃった筈よ」
 その証拠がこの常夜燈です。明治生まれのおばあさんは国鉄山陽線が敷設される前の地形を教えて下さいました。
 滄桑の変(土地の形状が大きく変わること)をわきまえていないと、ここにこんな常夜燈がある意味が解らない。
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 五十年ほど前まで中国地方の大動脈だった山陽道。すなわち旧国道二号と河手川が交差する東、約百米のところ道端。
 台石に沢山の盃状穴が見られます。子供達がその頃は傍を流れていた河原の小石でよもぎを搗いて遊んだしるしです。八幡様とか常夜燈の辺りは官地なので、子供達は誰にも咎められずに遊べた場所です。

 たった五十年前まで唯一の幹線道路だったこの旧国道を辿ると、山側から流れてくる天井川と交差するたびに、道路が異常に高くなっているのに気付きます。花崗岩質の土砂の流出によって、川が考えられないほど高くなって来たのです。天保二年(1832)のころ現国道二号も国鉄山陽線もなかった時のこの辺りの地形は、今と大変違ったものだったのです。
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 瀬戸町山北、熊野神社のそばの公民館うらに、住宅に囲まれて立っています。
 大昔の地図をみると、今の国道二号に沿って福山から松永までは水つづきだったようです。
 石垣用の花崗岩が産出された赤坂近くですので、真土(まさつち)の堆積によって、水路が埋まってきたことが想像されます。

 時代は下りますが、そばを流れる河手川は、今から百年余り前、花崗岩の積み荷を下ろして帰って来る舟の水先案内をした常夜燈ではないでしょうか。
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 神社敷地内にあり、「比古佐須岐神社は前方彦山の南面にあったもの、二度移り変わって現在地へ」と、隣の志田原照夫さん。
常夜燈は鳥居の左手の植込みの中にあるが、神社に属してはいない。

 元は、今の県道の上に、上手の池から観音原の水田への引き水を観ていた。現在もその水路は県道を跨いでいる。
 毘・大・講の三字は石工の鑿がすべったらしい。ほほえましい誤字のように見える。
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 観音原の引き水と志田原の水路との交わるところに在る。
 山が深くないので、水田にとってわずかな水でも大切だ。水の神様への祈願のしるしか。
おもての「天下衆神」とは珍しい表現である。これほどの優美な常夜燈が、どういう訳でここに建てられたかわからない。

 近くの比古佐須岐神社と共に、彦山の南面から移されたと十年ほど前、聞かされたことがあるが。
 水落と命名したが実際の土地名ではない。
志田原にあるので、さきの常夜燈と混同しないようにと。
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 瀬戸川を河口から遡ると、ここまでは舟行が容易であったことがわかります。澪標の常夜燈です。
 昭和の終わりごろ、皇太子徳仁親王が、現地を歩いて見られたそうですが、何のことか解る人は余りいない。実は親王は中世水運の世界的権威なのです。瀬戸内海内陸部の高瀬舟水運にもご興味を持たれています。
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 王子権現のための常夜燈かとも思われるが、長和から半坂へぬける峠道のてっぺんにあれば、いやでも目に付く。若連中が寄進したものであれば、水難除けの意味は少ないかもしれない、が、注進に及ぶ人が多いのであえて掲げる。
 峠近くの貯水池は農民の命の綱。
権現さん、池土手を守って下さいますように。
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 王子権現は川上の半坂へ抜ける峠にある神社。常夜燈は圃場整備により、元あった所より百米ほど川下の現在地へ移動。地神が同居しているが、もともと同居するいわれはない。どちらも道路改修などによって寄せられたもの。

 ごく近くに明王台ニュータウンが出来たので、昔を知る者にはおどろくほどの開けようだ。
 「猪之子の人口は、わたしが婦人会長を務めていた四十年ほど前からすると、倍増しました」
菜園づくりの品の良いご婦人が説明してくれました。
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