加茂川
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加茂川地図
12-01 市村上井手川 上井手川
12-02 深津八幡神社 宮の端
12-03 辻の坂 深津高地南端
12-04 市村鍋蓋 手城川
12-05 海蔵寺跡 蔵王町 
12-06 春日日吉台 上井手川
12-07 浦上鍛冶屋峠 春日浦上
12-08 坪生宮嶋さん 坪生厳島神社前
12-09 坪生金毘羅さん 瀬戸川 高屋川 
12-10 引野天道池 手城川
12-11 引野山之上 手城川
12-12 天當さん 福山港


 蔵王町はもと深安郡市村(いちむら)と呼んでいましたが、福山市と合併して、蔵王町と名付けられました。大昔から市で栄えた集落がありました。
 上井手川のほとりに立つこの常夜灯から南は、見渡すかぎりの水田が海まで広がっていたのです。
 今は家々が立て混んで、その中に隠れてしまいそうになっているこの常夜灯が一番の先住者です。
 この辺りの平野はすべて近世になって海を埋め立てたものです。
埋め立てられたときは、もちろん舟運のための川が残っていました。今立っているこの辺りが、澪(みお)だったのです。
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 八幡神社の鳥居わきにあるが、神社の献燈ではない。その昔福山に封ぜられた水野勝成が初めて福山に上陸したのが東深津のこの辺りだったと聞いたことがある。

 「国のしり深津嶋山しましくも」と萬葉集に詠まれた頃の深津は字の通り、深く入込んだ津であった。
 
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 明治十四年刊行の広島県管内地図によると、芦田川の分流が福山城北をめぐり、高野山あたりで更に分流し、ここ辻の坂西で合流しています。
 世話方佐藤新次郎他三十二人の中には「干鰯問屋中」などの銘も見られ、当時水上運輸を利用して豊かになった村人の心意気を表すかのように、大きな石垣を組み、威風堂々たる常夜燈が、福山平野を見下ろしています。
 干鰯は粉にして、当時盛んだった備後絣の、綿栽培の肥料とした。
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 『備陽六郡志』に「笠岡街道の北に小き藪あり其内に荒神社ありこの邊寛文の頃まで大沼なりけるか如何なる大水にてもこの藪は水面に浮み出づること恰も汁鍋の蓋の如くありしかはかく名附けしと」とある。
 約三十年前、区画整理のため移転されましたが、以前は川を隔てて約五十米ほど西側の、昔の広い川沿いに立っていました。
蔵王常夜燈と呼ばれています。

 『土屋日記』には「人足は五ヶ沼(市村・深津・吉田・引野・手城)より寄進として出す(都合二百五十人)」 
建立年の正月二五日「晴天、石工丈助伜吉兵衛参り、笠石を江戸まきろくろにて上に釣り上げ置く。同夜雨降る」と建立の経緯が詳細されています。
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 村上正名氏の「福山の歴史」に ”深津のあたりには、奈良時代に創建された海蔵寺(国史跡)がその遺構を留めて、塔や金堂の跡が磚(かわら)を積み重ねた土段に名残をとどめている。

 塩飽欄窗(らんそう)さんのおばあさんの語った江戸時代の話に、此の深津の港の情景がある。

 桑滄(そうそう)の変、語り難し。たった百十数年前まで、ここへ舟が着いていたのです。
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 春日町吉田は一文字堤防が出来て海がなくなり、渺々(びょうびょう)たる水田が広がったので、美田の意味で吉田と命名されたとのこと。

 福山市内から至便の距離にあるので、田圃は家並みで埋め尽くされてしまった。いまは吉田と呼ぶより日吉台の方がとおりが良い。

 天當神社の金毘羅常夜燈と瓜二つである。
建立年も同じであるから、同じ石工の作と見られる。
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 鍛冶屋峠(又の名を夫婦池峠)は急な坂道で、しかも曲がり角なので、頭上にある常夜燈は気付きにくい。油を灯した皿が埃をかぶって、天保時代その儘に置かれていた。
 村中とあるのは、ここの古い地名浦上村のこと。
浦上東、浦上西、鍛冶屋、能島、宇山、吉田村が合併して春日町となる。
 区画整理によって取り残された常夜燈の一角はただ一人、地元の旧家藤尾友一さんが手入れをされている。
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 右手浦上を経て手城川を望む、景勝の地に立つ厳島さんは、金毘羅さんとともに海の神様。
 厳島神社が勧請されたのは、いつの頃だろうか。
まだ坪生の平野部を波が洗っていた頃かも知れない。
 金毘羅の文字が使われているのを見ると、明治以前の建立だろうが、厳島さんに因んで建てられた様子。
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 つぼう郷土史会の西楽寺さんは、金毘羅さんが何故、草深い山の中にあるのか不思議に思った。
 平成一桁年代に、この地が宅地造成された。樹木は切り取られ、裸になった常夜燈は坪生中で一番よく見えるところに立っているのが分かった。
 瀬戸川は高屋川の支流の竹田川の支流である。
どうしてここに?の疑問は、樹木や家を捨象してみるとよい。天保九年は百五十年も前、雑木も家もそんなに古くは保たない。
 多少移動しているが、今の敷地のそばにあった十年前の写真である。
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 今でこそ備後ハイツや日本鋼管へ行く大通りに面して晴れがましい所であるが、建てられた明治の頃はいうまでもなく、昭和三十年代までは人跡まれな溜め池であった。
 福引野不動里(ふどうり)天道池の土手に立ち、農業用水を守って下さった金毘羅さんは、いまも氏子中に大切に祀られている。
 
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 江戸時代の金毘羅大権現は、明治の廃仏毀釈で金刀比羅神宮になった。銘刻の金毘羅社は明治十三年ころの迷いがみられる。
 山のてっぺんにあって、麓は引野・手城の田園地帯が広がる。良く見える位置に立つので、日暮れても常夜燈の明かりを頼りに我が村へ帰ることができた。昔の夜はほんとに暗かった。街の明かりなんてものは無かったので、方角さえ分からない。
 前の家の山口民次郎さんの奥さんは早起きだ。まだ薄暗い夜明け前、常夜燈の周りをきれいにされている。むかし常夜燈前の広場で、門燈籠を立てて賑やかに踊っていた祭りの、懐かしい頃をていねいに話して下さった。
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 備後福山の海の正門である天當さんは、かわいい島で今は陸続きになっている。
 平成四年に天當神社の三百年祭が行われた記念碑が建つ。
 文化五年の建立はこの手の常夜燈のはしりである。春日町日吉台下の常夜燈(12-06)も同じ年に同じ形で出来ている。
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