◆草戸稲荷神社・奉献「永代常夜燈」 増田 洋子 <006>
  草戸稲荷神社に常夜燈が大きなものだけでも七基あります。全て奉献によるもので、それぞれの思いが込められているに違いありません。この常夜燈が今回のテーマの常夜燈の中に入るのかどうか定かではありませんが、少なくとも建てられた当時「灯り」としての役割も果たしていたのではないでしょうか…という勝手な推測で、今回はその中でも一番大きな二基の内「本庄屋新助」と銘の入った一基についてご紹介します。
「五穀成就」の銘文
 
マウスオン
 
 草戸稲荷神社の入り口に大きな常夜燈がニ基あります。向かって左には享和元(1801)年4月明王院廿六葉密剛の時に萬人講により奉献されたもの。
基壇に世話人・山田屋小兵衛・大和屋勝助・川口屋安兵衛・山田屋弥兵衛・天満屋宇兵衛・咽草屋利助・近江屋六兵衛の刻名がある。

 向って右の常夜燈は本庄屋新助奉献で竿部の正面の刻文は、永代常夜燈、左側面に五穀成就、裏面に家内安全、右側面に明治三庚午(1870)卯月(4月)。
基壇正面に奉献 屋号、左側面に願主、古野上本庄屋新助、右側面に當社世話方、花谷延助、その下に刻文がある。

 『佐藤新助直延者深津郡本庄邨之民金蔵第九子也  性好商売遂轉居古野上 常信當社而日参雖風雨洪水曽無怠然無所祈願 惟敬神霊而巳家無災害売買繁栄為自以為此神之従加護也 矣於之獨献永代之常吊以謝其徳云爾』
 「佐藤新助直延は深津本庄村の民金蔵の第九子である。性格は商売が好きで遂に古野上に転居した。常に当神社を信じ、雨風、洪水といえども怠ることなく日参し祈願した。思うに自分の家に災害もなく、商売が繁盛しているのは神霊を敬っている神のおかげによるものだ。
一人で永代常夜燈を献じその徳に感謝したことを、伝える。」
 

       (「草戸の今昔」〜草戸稲荷神社発行より)
本庄屋新助奉献永代常夜燈
 本来常夜燈は、仏堂に献燈する施設として奈良時代頃に朝鮮半島から伝来した燈籠を起源としていたそうです。その後寺院だけでなく氏神へも奉納されるようになり、常夜燈の寄進には燈明料などが伴い、誰もが容易に寄進できるものではありませんでしたが、近世以降には、庶民層からの奉納も可能となり、街道、村境、村内の辻、峠に盛んに建てられ、村内安全や、道行く人の安全、防火などが祈願され、旅人にとっては、道しるべとして利用されていたのだそうです。本庄屋新助さんも永代料金として確か土地(?)を寄進していたように思いますが、全体に文字が不鮮明で再度の確認が必要です。

 「常夜燈」というと「金毘羅さん」ということで、単純に”水に関係のある道標(みちしるべ)”と思っていましたが、伊勢参りなどの街道筋にも道標として数え切れないくらい多くの常夜燈が存在しているようです。
今のように電気のない時代ですので、暗くなると灯明を上げて明るくする必要性が先ずあったのだろうと思われます。それと『信仰』が心の拠りどころだったという時代背景もあり、神仏に対して「何かに対する祈願(お願い)だったり、感謝(お礼)だったり」の気持ちを「常夜燈」という形で表したのではないでしょうか。現代にもありがちな「心を形にする」という行為なのではないか…と至極単純に私は捉えています。

 燈籠の石材工芸としての歴史は、室町初期に遡るそうです。江戸時代になると「石工」と呼ばれる人たちがたくさん居たという記録もあり、中期には素朴で重量感に満ちた常夜燈の伝統工芸としての原形ができ上がっていたそうです。またそれを裏づけるかのように現在残されているものの中に江戸時代のものがかなりの割合を占めています。

 今回も根っこの所に現代人(私だけかも…(^^;)には想像の域を越えた『信仰心』の存在があることが解りました。しかし当初無上無心だった(?)信仰心は江戸時代になると少し形を変えてきているように私には感じられるのですが、本当のところはどうなのでしょうか?

【「願主 古野上 本庄屋新助」の銘

【「その他の常夜燈と狛犬
H17・3・16