第150回     備後の四ツ堂(41)

  
 福山市沼隈町草深阿引 「洲の端地蔵」

本尊のお地蔵様。台座は六十六部の供養塔になっている。

 福山市沼隈町の辻堂は、211年現在16宇存在する。
 そのうち7宇はコンクリート造り、あるいはコンクリートブロック造りである。コンクリート造りでの再建は残念だが、宝形造で本来の堂に似せたものもある。堂として残っているだけでもよしとしなければならないだろう。
 しかし、草深阿引、ニチエー裏の道沿いにある「洲の端地蔵」の堂を見た時、驚いた。というより、それが四ツ堂であるとは思わなかったという方が当たっている。後に、『沼隈町誌』で、これが辻堂とされていることを確認した。
 陸屋根のコンクリート四本柱。その柱が社寺建築に用いられる「内転び(柱立て四方転び)」ならぬ「じょうご形四方転び」なのである。しかもその底辺は、石地蔵一体が安置できる広さしかない。これが現在でも四ツ堂といえるのかどうか。
 私見を述べれば、四ツ堂である。
 
 

奇抜な姿であるが、のんびり憩う場所という機能は今もかわらない。
 
 まず、場所が旧道沿いであること。そして、安置されている石地蔵にはみかんや花などたくさんの供物。厚く信仰されていることが伺える。そして、もうひとつ。
 もう数年ほど前になるが、境内の端っこに座って話し込んでいる老婦人を見た。これこそ、四ツ堂として機能している証である。
 形式だけに捉われていると、大切な遺産の本質を見失いかねない。「四ツ堂という習俗の本分は何か」を改めて考えさせられた一光景であった。ココロを受け継ぐことがその土地の歴史を紡ぐのだ。
 さて、安置されている石地蔵だが、台座に正徳四年(1714)六十六部供養塔の文字が刻んである。六十六部廻国巡礼の供養塔は、元禄~宝永時代の建立が最も古い年代だそうだ。正徳時代は古例に属する。近世の巡礼行者信仰に関する貴重な史料であろう。
 「洲の端地蔵」が本来、四ツ堂であったかどうかわからないが、いつの日か、行きかう人が腰を下ろして休め、そして信仰の場ともなる堂が建つ期待を胸に、その場を後にした。



備陽史探訪の会
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