第159回     久留美の里―後編―

  
 流浪人から藩主へ

吉岡家遠望。前の道が久留美谷へと続く。
かつては山野への道が通っていたのだろう。

 久留美の里の道は吉岡家に突き当たり、右へ傾斜し、久留美谷へと落ちていく。左手の石垣の道を進んでいくと、吉岡家の冠木門(かぶきもん)の前へ出る。
 水野勝成もこの門をくぐったのだろうか。
 勝成が青年時代、備後の地を流浪していたのは広く知られいているが、その足取りは数多の伝説や逸話に彩られている。この久留美の里にも、若き勝成が吉岡家に寄食したと伝わっている。ふらりと立ち寄り当主と意気投合したのか、あるいはこの風土の心地よさに気持ちがほぐれたか。なるほどと思わせる風情が里の空気にたゆとうている。
 備後に入封した勝成は、築城の際、吉岡正広に命じ天守閣の心柱を求めたそうだ。また藩主となってからも、鹿狩りに来て止宿している。
(『広島県地名辞典』には、三回当地を訪れ吉岡家に止宿しているとある)
 すでに焼失しているが、母屋の隣には勝成を迎えるために建てられた陣屋もあったという。残っていれば、ぜひ見たかった。
 またその際、吉岡家は勝成より鉄砲を拝領している。『備後今昔』によれば、「銃身には若竹の紋様が金銀象眼されており、「摂州堺住、榎並屋九兵衛直満作」の銘が入っていた」とある。
 
 現代へと続く久留美

水田下の石垣、よく見ると中央部分の石積みが異なる。
かつて代官所の門があった場所だという。
 
 迫るようなスギの森を背に、吉岡家は久留美谷を見下ろすようにして建っている。赤い石州瓦が目立つ里に黒い瓦屋根が目を引く。敷地の隅には堂々たる大樹が蔭を落としている。何百年という歴史の重みが漂う家である。
 その隣の水田が亥の平の居館跡であり、天領時代、吉岡家が代官を務めていた頃の代官所跡でもある。その名残で今もこの地は、官場と呼ばれるそうだ。
 名称以外に当時の面影を偲ばせるものが石垣だ。現在は、一面石垣となっているが、じっくり眺めていけば、中央辺りに明らかに石積みが異なる箇所がある。そこがかつての門があった場所である。
 登武丸城跡も、官場も、何も知らずに通り過ぎれば、ただの山の尾根であり、ただの水田にすぎない。かつて登武丸に祀られていた吉岡神社も、現在、八幡神社の境内に遷座されている。案内板がなければ、そして地元の人の説明がなければ、山腹に広がる静かな里としての感慨しかなかったろう。
 長い歳月を経て、人も建物も移ろっていく。しかし、そこに伝える意志が存在すれば、何百年の歳月変わらずそこにあり続けることができるのだと、このたび再認識した。
 そこに継承していく人がいる限り、楠正世は久留美の里に今も生き、水野勝成もふらりと立ち寄ることもあるかもしれない。代を継ぐということは重いことであるが、歴史を手元に呼び寄せることでもある。



備陽史探訪の会
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