第161回     

  
 粟根村の医者・窪田次郎

倒壊した大木が台風後の窪田次郎生家跡

 2011年5月29日、備後地方を襲った台風2号の強風のため、福山市加茂町粟根の市天然記念物「粟根のエノキ」の大枝が折れた。それが落下して、下の土蔵が破損した。
 折れたエノキがあったのは、窪田次郎の生家跡で、市史跡でもある。窪田次郎について中国新聞では「明治期の啓蒙思想家」と説明されていた。確かにその通りであるが、これだけでは、一般の人にはあまりに遠い存在だ。
 例えば、日本で最初の小学校を福山に作った人物と言えばどうであろう。
 時に文久2年(1862)、安那郡粟根村(現福山市加茂町)で、次郎は医者である父の跡を継いで、明治初年には藩校誠之館の医学校教授にも就任した。
 その頃より、次郎の啓蒙活動が活発になる。まず人々に教育が必要だと痛感した彼は、誰もが無料で教育を受けることができる場「啓蒙所」を作ろうとするが、これがなかなかうまくいかない。そこで「啓蒙社」を立ち上げ、資金を募り啓蒙所を自主運営することにした。
 
 最初の小学校

入口の石段上には案内看板がある
 
 明治4年(1871)2月6日に深津郡深津村長尾寺に最初の「啓蒙所」が開かれた。(これが現在の深津小学校に当たる)
 また、同年3月には、粟根村村議会を開設した。実に国会開設の20年前、地方のそれも一農村で驚くほど民主的な議会が開かれていたのである。これについては、『歴史誕生12』(角川書店)に詳しいので、興味のある方は福山市立図書館で読まれてみるといい。
 さて、同年7月には廃藩置県が行なわれ、福山藩は深津県となる。啓蒙所は順調にその数を増やしていき、福沢諭吉にして「啓蒙所は天下に先立ち天晴の功名を挙げたり」と賞賛せしめたと云う。明治五年に「学制発布」がなされ、福山地方を視察した明治新政府の役人は「啓蒙所は文部省も聊か先手を打たれた」と唸ったと云う。それほど啓蒙所は小学校に近く、組織的に完成されていたのだ。
 学制発布の頃には、小田県下の啓蒙所は83ケ所、生徒数5095人となっていた。これらは、そのまま小学校となった。全国に先駆けて、小学校の誕生である。
 現在、「学制発布」以前に、福山地方に多くの小学校の前身がすでにあったことを知る人は如何ばかりだろう。小学校の教員におかれては、村民の生活を豊かにしたいと願い活動した窪田次郎の信念の幾ばくかでも生徒の胸に灯してあげてほしいと思う。
 今、住む人もいなくなった窪田次郎生家跡、その敷地奥にポツンと建つ白壁の土蔵。ここから粟根村議会の記録が発見され、次郎の数々の功績が日の目を見たのである。



備陽史探訪の会
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