第166回     

  
 干拓地を眺むれば

草深の唐樋門(県史跡)。元禄9年(1696)と安永3年(1774)に修理されている。

 江戸時代初期は、全国的に大規模な干拓が為された時期である。江戸を筆頭に、全国津々浦々、現在都市として発展している海沿いの街はほとんどその頃の干拓地ではないだろうか。
 もちろん、福山市街地もそうであるし、松永や沼隈にも干拓地はある。当時は干拓された土地というのは、比較的わかりやすかったのだろうが、四〇〇年の時を経て、街として発展してきた地に実際に立ってみると、どこが干拓された土地で、それ以前の地形はどうだったのか、全く想像つかない場合も少なくない。その中で、干拓当時の証を目にすると、その当時の風景が俄かに身近に感じることがある。
 それを如実に示しているのが、福山市沼隈町の草深にある。 
 県道72号線(福山沼隈線)が下山南で県道47号線(松永鞆線)と交わり、さらに進む。右手に道の駅アリストぬまくまを見ると、そこはもう草深である。
 かつては、このあたりまで、海が深く切れ込んでおり、川向こう常石側が海に突き出た半島となっていた。少し先のぬまくま文化館前には、今も常夜燈が残され、雁木跡も公園として再現されている。
 
 樋門は語れり

 樋門の裏側。堤防東側の一角に石垣を積み上げ、大きな石や木の柱で組みあげらている。
 
 松永鞆線の左手には小高い丘が見える。寄宮八幡宮が鎮座するこの丘は、かつては遠浅の海に浮かぶ島であった。現在、ハローズやニチエーなど大型店舗が建ち並ぶこの地は海であり、その海の真ん中を県道は南下する。
 千年橋を渡ってすぐ左折すると、桜の並木道だ。ここが、寛文年間(1661~1672)草深の磯新涯を干拓した際に造られた土手である。現在は土手の南側には埋立地が続き、ここがかつて海と新涯地を区切った境だったとは判別し難い。
 左手に流れるのが、潮の混じった悪水を流す潮廻し川の名残だ。その川に沿って東進して行くと、土手の端に現れるのが「草深の唐樋門」である。樋の堂と呼ばれる建物とその床下の樋門から成る。
 海側から見ると、樋門の全容がよくわかる。堂内部に取り付けられた滑車により、三枚の門扉が上下に動くようになっている。満ち潮時はこの門を堅く閉ざし、干拓地を守り、引き潮になれば開放して潮水を逃した。干拓地の守りの砦である。
 前面から見ると華奢に見えるその砦も、裏側から眺めるとなかなか堂々としている。太い梁を支える石は、いったい石垣のどこまで深く入りこんでいるのだろうか。
 見た目は地味な遺跡であるが、その地にそのままの形で今も現存しているという事実は、途方もなく意味深いことである。
 ひとつの樋門が土地の生い立ちを語り、それがまた様々な人や土地の暮らしぶりを喚起させる。
 土地の成り立ちを知ることは、史跡を訪ねること以上に、より深く鮮やかに歴史を体現させてくれる。



備陽史探訪の会
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