第172回     

  
 鎌倉以来の古社・萩原神社

萩原神社本殿。

 国道182号線を北上し神石高原町へ入ると、ほどなく左へ入る小道が見えてくる。その道を谷に向って落ちていくと、やがて小さな川筋に当る。右手の川沿いの道が来見(くるみ)へと続き、左は藤尾へと続く。穏やかにススキが揺れる風景の中、藤尾方面へと車を走らせると、民家がひとつ、ふたつと現れる。萩原の集落だ。
 集落中央あたり、民家の裏山に鎮座するのが萩原八幡神社である。
 『広島県神社誌』によれば、建久三年(1192)九月十八日岡田但馬守員正によって勧請されたという。応安元年(1368)邑長秋山小左衛門が山林三町余を永代宮殿修覆料として寄進し、同年、再建。長享二年(1488)には邑長秋山善右衛門が萩の大木二本を献じ、その一本で御神体を作り、もう一本を宮柱にしたことにより、この地を萩原と呼ぶようになったという。
 鬱蒼とした深山に抱かれた神社は、この萩原の地の礎となり守りとなり絆となって、800年間の永きに亘り、この地の人たちと共にあった。しかし、近年過疎化も激しく、10戸から成り立っていた集落は5戸に、そして4戸にと減少の一途を辿っていった。
 2011年は、萩原八幡神社の相殿神である萩原荒神社の式年祭にあたる。過疎化の現実を前にして、それでも13年に一度の式年祭は見事に引き継がれた。
 
 限界集落の先に見える灯火

坂瀬川区民会館で行われた式年祭。
 
 その日、坂瀬川区民会館は人で溢れていた。式年祭が、執り行なわれているその場所に到着したのは、豊松八ケ社神楽の「神役」が終わり、昼食時の事であった。
 人々は、それぞれ円座に座り、お弁当を囲んでいる。手作りのおでんやサラダが振舞われる。老いも若きもみな、底抜けに晴れやかな笑顔で談笑していた。
 会場に集っていたのは、45年ほど前、萩原の谷を出て行った50~60代の人たちとその家族たちである。父祖伝来の伝統行事を継ぐため、5年前から一年に一度集まってこの日のために活動してきたのだという。
 もちろん、坂瀬川地区の人々の惜しみない協力があってこその実現であろうが、萩原出身者の伝統文化をなんとか継承していこうとする心意気が、困難な事業を結実させたのだ。
 昼食の間には、今も谷に住む古老たちの挨拶があり、和やかな歓声が湧き上がる。「きなり」の柿が振舞われ、懐かしい昔話に花が咲く。
 戸数から言えば、萩原の谷は、限界集落を越えた集落なのかもしれない。しかし、遠く離れた地から、それを支える人たちがいる限り、そして伝統行事を継ぐ人たちがいる限り、萩原の谷の歴史は決して消えることはないだろう。小さな火であっても、灯し続けることができれば、いつの日か大きなかがり火に燃え上がっていくこともできるだろう。



備陽史探訪の会
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