びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(21)
                                 (福山市御幸町) 〈247〉

山内氏の菩提寺  円通寺
 大内方の国人連合の盟主として活躍していた宮実信が、天文六年(一五三七)には、一転して尼子方として登場するのは、大永末年から天文五年(一五三六)にかけて起った情勢の変化があった。
 大永七年(一五二七)夏、備後は大内氏と尼子氏の決戦場となった。吉舎の和智氏を味方に引き入れた尼子経久は、備後和智に兵を進め、これを拒もうとする大内勢と激しい戦いとなった(和知細沢山合戦)。この時は陶興房率いる大内勢が勝って、三次まで進撃した。
 尼子氏の南下は、この後も繰り返され、多賀山氏などの備後の国人衆は、尼子氏の重圧に苦しむこととなったが、享禄三年(一五三〇)になって事態が一変した。
 同年春、経久の三男塩冶興久が父の処遇に不満を持ち反乱を起こすという事件が勃発した。この事件は備後の政情とも深い結びつきを持っていた。興久の妻は備後の有力国人で山名氏の守護代をも務めたこともある庄原甲山城主の山内直通であった。当然、直通は興久を支援した。 
 この戦乱は尼子氏のライバルであった大内氏にとっては尼子氏を打倒する絶好の機会であった。だが、大内氏も義興の死去の直後で、跡を継いだ義隆の手腕は未知数という、強力な軍事行動を起こし難いという事情があった。天文初年、敵対していたはずの、毛利元就と尼子晴久(当時は詮久)が義兄弟の契約を結ぶという事態は、このような情勢下で行われた。
多賀山通続 (露休) 判物
 経久は、このように老獪な手段で大内方を封じた後、本格的な興久討伐の軍を起こした。負けた興久は岳父直通を頼って備後に落ち延びた。天文三年(一五三四)、八月、経久の圧力に屈した直通は興久を自害させ、経久に和を乞うた。乱を収めた経久は眼の上の瘤であった山内直通討伐の軍を起こし、天文五年(一五三六)三月、遂にこれを降した。経久は直通を殺すことはせず、隠居させ、多賀山露休の嫡男婿法師(後の隆通)を甲山城主に据えることで、この一連の事件を収めた。経久の全面的な勝利であった。
 天文六年(一五三七)一二月、実信をはじめ、一門の上総介、法城寺尾張守が、「尼子方」として、『天文日記』に登場する背景には、このように天文五年から九年(一五四〇)にかけて、尼子の勢力が大きく備後に及んだという事情があった。
 実際尼子氏の勢力は瀬戸内沿岸の鞆に及んでおり、「鞆安国寺役」を尼子氏が差配するという事態も起こっている(『福山志料』所収渡辺文書)。
 この時期の史料は、前後の時代と比べて極端に少なく、尼子氏の備後支配の様子を知る手掛かりは少ない。このことは、或いは、史料が国人衆の子孫によって意図的に隠滅されたと言うこともあろう。多くの国人衆は後に毛利氏の家臣団として存続しており、江戸時代の倫理観からすれば、自分たちが一時期尼子に従ったという事実は、出来れば隠したかったはずだ。

備陽史探訪の会
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