びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(23)
                                 (福山市御幸町) 〈249〉

瀬戸山城
 『陰徳太平記』に登場する「宮若狭守秀景」は、江戸時代以来、大変名の知られた人物であった。備後郷土史で最も古い著作と言われる「備後古城記」をひも解くと、宮氏の本城とされた新市亀寿山城をはじめ、多くの村々で城主として挙げられている。
すなわち、刊本「備後古城記」には、

安那郡徳田村(現神辺町徳田)
東中条村曽根原山城(同)
山野村戸屋ヶ丸城(現山野町)
品治郡新市村亀寿山城(現新市町)

の城主は宮若狭守秀景であったと記している。これは古城の来歴に最も詳しい『西備名区』も同じで、しかも同書は同じく『陰徳太平記』に出てくる、天文三年(一五三四)十月、毛利元就に降伏した若狭守を秀景に当て、秀景は、天文三年に亀寿山城を退去した後、中条・徳田の山城に移ったとしている。
 では、秀景が歴史上の人物かといえば、そうではない。若狭守秀景なる人物は『陰徳太平記』にしか登場しないのである。
 宮氏で「若狭守」を名乗るのは宮上野介家の人々に限られることは先に述べた。上野介家の嫡男が、元服後最初に名乗るのは「又次郎」で、その後、次郎左衛門尉を経て、跡目を継ぐと上野介に任官した。だが、その場合、親の上野介が健在で家督の地位にあった際には、別の受領名を名乗った。それが「若狭守」であった。
 天文十年(一五四一)頃の上野介家の家督の地位にあったのは実信であった。同年二月、郡山合戦の尼子の敗退によって、備後南部でも異変が起った。上野介家の一門であった法成寺兵部大夫が、椋山城に拠って実信に叛したのである(備中平川家文書)。
椋山城跡に残る井戸
 この法成寺氏の行動が大内、尼子何れの陣営の立場でなされてのかは不明だが、実信が天文八年(一五三九)まで尼子方であったことと、尼子敗退の直後であったことを勘案すれば、大内方の反撃の一環であったと見たほうが良いだろう。
 実名の詮索は別にして、ここで宮若狭守の名が大内方として登場するのは、父実信が尼子と深い関係にあったため後方へ退き、代わって尼子と縁の薄かった若狭守が表へ出たという事情があったのだろう。現に、若狭守は大内義隆の偏諱を貰って「隆信」と名乗った可能性が高い。寛永一六年(一六三九)三月、道上の浄光寺願了が福山藩の奉行所へ提出した書上に拠れば、天文一七年(一五四八)、同寺に「田畠二反大」を寄進したのは「宮若狭守隆信」なる人物で、「此の証文は今に御座有」と述べており、江戸時代の初めまでは若狭守の実名が「隆信」であったことは正しく伝わっていた。すなわち、実信は、嫡男若狭守隆信を表に立てることによって、この危機を乗り越えようとしたのである。

備陽史探訪の会
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