びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(27)
                                 (福山市御幸町) 〈253〉

湯浅氏の拠った尾首山城跡 (世羅町伊尾) 
 調略によって、じわりじわりと包囲の環を縮めていった大内・毛利の連合軍は、天文十六年(一五四七)四月、遂に神辺城の外郭の諸城に対する攻撃を開始した。
 南からは、鞆に本陣を置いた大内方の警固衆が手城、大門に上陸。同月二十八日、神辺城南方の坪生要害を攻撃、激戦の末これを抜いた。主力を務めたのは竹原小早川氏の軍勢で、同氏を継いだばかりの小早川隆景にとって、この合戦が初陣となった。
 神辺城西南の西国街道沿いでは、山北(瀬戸町山北)で小競り合いがあった(閥閲録一三六)以外は知られていない。これは、既に前年以来、銀山城の杉原豊後守が大内方に寝返っており、銀山城が大内方に開放されていた為であろう。
 それに対して、神辺城の北方にあって、理興の後ろ盾となっていた今大山城の宮氏(上野介)は飽くまで大内・毛利氏と対抗しようとしていた。宮氏は備北や備中方面に大きな影響力を持っており、この方面からの「後詰」が期待できたからであった。
 吉田郡山城から神辺方面には、世羅郡から直接府中へ出る道と、御調の市村から御調川沿いに府中に出る道があった。世羅郡は毛利氏の準本領というべき「備後三千貫」があった地で、在地最大の国人であった上原氏が毛利に味方し、さらに、備北と備南の関門朝山二子城の楢崎氏も早くから毛利氏に好を通じていた。また、御調川流域は毛利氏と縁故を結んでいた渋川氏や三吉氏の勢力圏であった。おそらく、毛利氏の軍勢は、世羅から御調に出、府中あたりで軍勢を整え、宮氏の諸城に対して攻撃を仕懸けて来たものと推定される。
大内義隆下文
 毛利氏の軍勢には次男で吉川氏を継いだ元春の手勢や平賀・天野などの安芸国衆、湯浅・門田氏などの備後国衆の手勢が加わっていた。
 今大山城の支城正戸山に毛利勢が攻撃を開始したのは、天文十六年四月のこと。南方の坪生要害に小早川勢が取り懸かったのと同時であるから、おそらくこの攻撃は、戦を指揮した大内氏の軍奉行の指図によるものであったろう。
 この合戦で正戸山が落城したのかどうかは、史料は黙して語らない。ただ合戦があったことだけは、左の文書によって確認出来る。

去る四月外郡五ヶ村動きの時、勝渡山面に至り毛利方出張の処、同陣あり、御馳走の通り、元就注進の趣、確かに披露を遂げ候、尤も神妙の由、その心を得これを申すべき旨に候、猶元就演説あるべく候、恐々謹言
 六月二日 (小原)隆言 判
      (青影)隆著 判
      (陶) 隆満 判
湯浅五郎次郎殿

 湯浅五郎次郎は実名を元宗といい、世羅郡伊尾を本領とした国人。文意は次の通りである
「去る四月、坪生合戦の時、勝渡山(正戸山)方面に毛利勢と共に出陣されたことは元就の報告によって承知した。このことは確かに義隆様に申上げた。義隆様は貴殿の戦功にたいそうお慶びである。委しいことは元就がお伝えする」(閥閲録一〇四 湯浅権兵衛)

備陽史探訪の会
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