びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(29)
                                 (福山市御幸町) 〈255〉

 正戸山城の落城に関しては、城主を栗原氏、敵を尼子氏とする伝承もある。
 『西備名区』は宮氏の後の城主として栗原左衛門尉信教を挙げ、次のような落城物語を記している。

天文年中(一五三一~一五五五)、栗原左衛門尉信教は、はじめ出雲の尼子氏に属していたが、後毛利氏に味方したため、尼子晴久は備後に兵を進め、加茂城(正戸山城のこと)を攻めた。
 攻め手の尼子勢の中に大堂仏右衛門という者がいた。凡そ尼子氏の家中には「十勇の士」という掟があって、高名手柄を三十度立てた者を「十勇士」と呼んだ。大堂はこの戦いまでに二十五度の高名を立てていて、あと五度の高名で尼子「十勇士」の仲間入りをすることが出来た。大堂は何とか五度の高名をたて十勇士の仲間入りをしようと、仏に願を立て、名も「仏右衛門」と名乗った。
 当城は要害堅固で、尼子の猛攻にもひるまず城は落ちそうに無く、攻め手はいたずらに日数を重ねていた。
 城の様子を見ると、南は往還が大堤のように遮っている。北は深い堀がめぐらされ、攻めようにも取り付く場所がない。これを見た大堂は一計を案じた。堀際に「仕寄」を付け、「大楯」を並べて、その内側に大きな柱を立て、「大刎ね釣瓶」を仕掛け、堀の水を掻い出すことを思いついた。
 大釣瓶を仕掛けた大堂は、城内に割れ鐘のような大声で呼びかけた。
山頂主曲輪跡の現状 
 「如何に城中の衆、拙者は攻め手の一手を承った大堂仏右衛門と申すものである。この大釣瓶で堀の水を掻い出してみようと存ずる。ご用心あれ…」
 これを聞いた城中の者はどっと笑って、「仏右衛門か神右衛門か知らんが、この堀の水を掻い出すことなどできる筈がない」「今の内に餓鬼右衛門と名前を変え、尻尾を巻かれるのがよろしかろう」と、散々嘲笑した。
 ところが大堂は尼子家中に並ぶものがないほどの大力の剛の者であった。城中の者があれよあれよという間に、大釣瓶で堀の水を掻い出し、一夜明けると、水は一滴もなくなり、堀は干上がってしまった。大堂はこれを見て、難なく「北の丸」を攻め取った。
 晴久は、この大堂の高名を見て尼子「十勇士」に加えたが、城はこれでも落ちず、長陣は不利と晴久は兵を引き上げた。

 『西備名区』の著者も、「天文年中とあれば、宮一族没落の砌にあらずや」「(正戸山)は滝山攻めの時分落去して、栗原はその後に居城なれば、栗原の時にはあるべからずと見ゆ」と疑問を投げかけ、「もし栗原氏が城主の時の話ならば、尼子勝久・山中鹿介の尼子再興の際の出来事であろうか」としている。
 何とも評価の仕様がない伝承だが、城の様子など、現地を知らなければ描けないような表現もある。年代と城主については今後の研究課題としたい。

備陽史探訪の会
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