びんご 古城散策・田口義之

◆正戸山城と宮氏(31)
                                 (福山市御幸町) 〈257〉

 大内氏によって攻め落とされた「宮次郎左衛門尉要害」に関しては、管見の限り、『福山市史』上巻で、河合正治氏が「その要害は正戸山かそのすぐ東の茶臼山(割注山王山)であろう」と述べているのが全てである。
 河合氏が、この要害が正戸山である可能性を示唆しているのは、前に挙げた(天文十六)六月二日付大内氏年寄衆連署書状(閥閲録一〇四)に「勝渡山面云々」が出てくるためである。一方で河合氏が茶臼山(原割注山王山)を挙げているのは「備後古城記」その他で周辺の山城主として「宮次郎左衛門尉」が書上げられているからである。

安那郡湯野村
宮次郎左衛門
宮次郎左衛門同若狭守兄弟神辺杉原左門と戦、当村にて討死す。梅木を以って墓印とす。名によりて中戦山と云ふ。家臣、江草・小林・猪原・山名・渡辺・丹下
同 西中条村
宮次郎左衛門尉景盛 大永年中
同 山野村
宮若狭守
宮幸内
同次郎左衛門

 これらの記載によれば、宮次郎左衛門尉は同若狭守の兄弟で、景盛といい、神辺城主杉原氏と戦い、湯野の中戦山で戦死したことになる。
 伝承の信憑性からすると、古城記の記載は、湯野の山王山や西中条の山城に宮次郎左衛門尉なる人物が居城したとする伝え以外は信じない方が無難である。但し、「梅木を以って墓印とす」という伝承は現に「梅の木」という地名が存在することから、或いは事実を伝えたものかも知れない。
 宮次郎左衛門尉といい、宮若狭守といい、この稿で度々述べているように実在の人物である。すなわち、次郎左衛門尉、或いは若狭守なる官名は、備後の有力国人衆として君臨した宮氏の一門、宮上野介家の家督たる者が上野介に任官する前に称する官途・受領名であって、室町時代を通じて何人も存在した。
 年代からすると、「備後古城記」に登場する次郎左衛門尉、若狭守は、十六世紀前半に宮上野介家の当主として備後の政局に大きな影響力を発揮した宮上野介実信の後継者であった可能しいが高い。
 若狭守が「水野記」に登場する隆信であったことは前に述べた。では、次郎左衛門尉に比定出来るのは誰か。
 上野介家歴代の官途を見ると、家督たる者は先ず左衛門尉に任官して「次郎左衛門尉」を名乗り、然る後、先代の隠居(死去)を待って「上野介」に任官する。この慣例からすると、「毛利家文書」や「備後古城記」に登場する「宮次郎左衛門尉」は、上野介家の嫡男で、実信または隆信の子息とするのが妥当であろう。

備陽史探訪の会
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