びんご 古城散策・田口義之

◆蔵王山下城と小川大膳亮(2)
                                 (福山市蔵王町) 〈263〉

蔵王山下城址
 この無名の山城跡、小川大膳亮の蔵王山下城であるかどうかは別にして、室町時代から戦国時代にかけて、地域の拠点として使用されたものであることは間違いない。曲輪や切岸もしっかりしており、臨時に築城され放棄されたようなものではない。
 城が存在していた時代の地形を復元すると、現在の蔵王町や春日町の平野部は海の底であって、西に深津島山が南に突き出し、東は引野の丘陵が海に迫っていた。これが所謂「穴の海」である。
 この「穴の海」沿岸には平野はほとんどなく、海岸には塩田が開発され、入江の奥まったところには港湾集落が栄えていた。蔵王町の旧名「市村」は、その名の通り、市場集落から生まれた地名で、『日本霊異記』に見える「深津市」こそ、その前身であったと考えられている。
 中世に入ると、一帯は「吉津庄」に含まれ、塩をはじめとする豊かな海産資源によって大いに栄えた。南北朝時代、吉津庄の在地領主と考えられる「平居士」は臨済宗の名僧寂室元光をその自邸に招いて歓待し、後には自邸を寂室に寄進し、永徳寺と号した(寂室和尚行状)。
 吉津庄の在地領主は杉原氏であったと考えられ、後の記録で杉原氏の同族三重氏が吉津庄内の上山村(春日町宇山)を、同じく大和氏が千田村を領有していたことが知られ(長福寺文書など)、平居士もその一族であったと考えられる(杉原・大和・三重氏は平氏の一族である)。
 戦乱の時代を迎えると、周辺から諸勢力が乱入し、実力で在地を支配しようとした。杉原・三重・大和の一族は奉公衆として在京することが多く、応仁文明の大乱で室町幕府の権力が衰えると、在地から浮き上がった存在となり、周辺諸勢力の進入許すこととなった。
 中でも、宮下野守の侵略は激しいものであった。明応三年(一四九四)の室町幕府奉行人奉書案(長福寺文書)によると、吉津庄内の市村と宇山は幕府奉公衆であった三重豊後守行佐の所領であったが、宮下野守が実力で占拠し、度々の幕命にも「事を左右に寄せて応ぜず」、幕府の奉行人をして「常篇に絶す者か」と嘆かせている。宮氏の押領は北野社が持っていた市村地頭職、龍蔵院領の上山村にも及んでおり、吉津庄の主要部分はほとんど宮氏の押領するところとなっていた。
 度々の幕命をも無視し、幕府の命を受けた国人衆の圧力を排除しつつ在地を支配するためには、武力が最大の拠り所であった。宮下野守は実名を政盛といい、「一万六千貫の宮殿」と称せられた実力者であった。地域を武力で支配するためには、拠点が必要である。この時代武力の拠点は「山城」であった。この無名の山城は、宮氏によって築かれ、荘園支配の拠点となったものと見たい。

備陽史探訪の会
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