びんご 古城散策・田口義之

◆蔵王山下城と小川大膳亮(3)
                                 (福山市蔵王町) 〈264〉

小川大膳亮国家墓
 さて、小川大膳亮である。現地に建つ墓石の銘によると、蔵王山下城主小川大膳亮の実名は「国家」といい、「備之後州深津郡市邑蔵王山下城」の城主であって、明応二年癸丑(一四九三)に同城を退去し、翌明応三年(一四九四)甲寅三月二十八日に没したという。
 明応二年というと、日本の歴史では、京都で家臣が将軍の首をすげ替えるという「明応の政変」が勃発した年で、戦国時代はこの年を以って始まったとするのが学界の定説である。
 では、大膳亮は室町の末期に生き、戦国時代の開幕と同時に生を終えた人物かと言うと、一概にそう断定できない資料が残っている。「備後古城記」をはじめとする江戸時代の後半に著された一群の郷土史書だ。代表として品治郡向永谷(駅家町)の人馬屋原呂平が文化元年に(一八〇四)に著した「西備名区」を取り上げてみよう。同書巻三十一深津郡市村のところに、蔵王山下城と小川大膳亮の記述がある。
 呂平は小川大膳亮の実名を「正広」とし、次のように述べている。
「備中大下村、大橋山城主、高田河内守正重、この辺りを領して家の子を置く」 
 はっきり言ってはいないが「家の子」とは大膳亮のことであろう。また、呂平は備後古城記の異本を引用して、
「明応の没落と云う。河内守は太閤に仕えし人なり。明応は誤りなるべし」とも述べている。これは当時既に墓石にあるような小川大膳の記録が備後古城記の異本に収録され、流布しつつあったことを示している(文化元年から20年後の文政七年に現在の墓石が建立されている)。
 馬屋原呂平が首を傾げているように、小川大膳亮が高田河内守正重の家臣であったとすれば、没年が「明応三年」というのは有り得ない話である。高田河内守は実在の人物で、豊臣秀吉に仕え知行一万石、堂々たる大名であった。実際、秀吉の遺品を拝領した武将の中に、内大臣家康から数えて193番目に高田河内守の名があり、「盛光」の太刀を拝領している(甫庵太閤記「秀吉公御遺物於加賀大納言利家卿館被下覚」)。
秀吉の没年は慶長三年(一五九八)だから、小川大膳亮が明応三年に亡くなった人物とすれば、その百年余り後の慶長三年に在世した武将の家臣であった筈はない。
 この「齟齬」は二通りの解釈が可能であろう。一つは、小川大膳亮が高田河内守の家臣であったことは事実で、明応に没したとする伝承が誤りであったとするもの。もう一つは、そうではなく、高田河内守の「家臣」という伝えがそもそも誤りで、小川大膳亮は墓石の銘文通り、室町末期を生きた人物であり、墓石に「高田河内守云々」の銘が無いのはそのためとする。果たして真相はどうだったのか。

備陽史探訪の会
バックナンバー HOME クラブTOPへ ▲PageTop