びんご 古城散策・田口義之

◆沖之城と能島三郎(1)
                                (福山市春日町能島) 〈265〉

沖之城の地図
 高田河内守に関係する城郭としては、蔵王山から東南約3キロのところにあった「沖之城」があった。「あった」というのは、今は開発されて城跡の形を見ることが出来ないからだ。
 この城は、「沖之城」と呼ばれるように、元は海上に浮かぶ小島の上に築かれた城であった。春日町から蔵王町にかけて広がる平野は、江戸時代初期の干拓地で、以前は「穴の海」と呼ばれる静かな入海の「海底」であった。「深津」の地名はこの入海に由来し、沿岸には「吉津」「奈良津」「深津」等の港湾集落が栄えていた。蔵王山下城やこの沖之城は、こうした港湾に出入りする船を監視するために築かれた「海城」であった。
 中でも、沖之城は海城の典型的なもので、春日町能島に深く入り込んだ入江の奥まったところに位置し、明治時代の地形図から推定すると、能島の陸地から200メートルほど沖合いに浮かんだ、径100メートルほどの円形の小島を利用して築かれていたようだ。
 干拓地に囲まれた小さな丘となっていた江戸時代後期にもはっきりそれと分かる地形を残していたようで、宮原直?の『備陽六郡志』にも、「沖の城、田の中に城跡の形、僅かにあり」(外編深津郡能島村の条)と記している。昭和30年代まではこの状況で残っていたようであるが、その後、住宅団地の建設のよって破壊され「沖田団地」になってしまった。現在なら、慎重に発掘調査をされ、往時の様子がある程度復元できるのだが、当時は中世の城跡まで発掘しようという考えは行政になく、城跡が痕跡も残さず、永久に消滅したのはかえすがえすも残念なことであった。
 唯一の記録と言っていい『西備名区』には、この城跡について、次のような伝承を記録している。

 沖之城
 能島三郎正信
備中大下村城主、高田正重
家老。大橋山城没落の時、
倶に落去すと云う。
 塩飽五兵衛尉
塩飽帯刀の家老。高田氏没
落の後、帯刀この辺りを押
領し家士を従せしむという

 高田正重は、蔵王山下城のところにも出てきた「高田河内守」のことである。
 高田河内守が、市村(現蔵王町)から能島(現春日町)にかけてを勢力範囲としていた国人、或いは土豪とすれば、この配置は妥当なものだ。蔵王山下城を旧市村の丘陵南端とすれば、その東方に沖之城を配することで、一帯の海上と沿岸部を支配することが出来る。
 だが、国人、或いは土豪としての高田氏の存在は、これら江戸時代後期の地誌以外では確認出来ない。実在の高田河内守は豊臣秀吉の直臣であって、毛利氏の領国であった備後国深津郡に領主として君臨する余地はなかった。

備陽史探訪の会
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