お知らせ 
皆様長い間「びんごe 商店街」をご高覧いただきまして有難うございました。
突然ですが、この度「びんごe商店街」を平成30年10月末を持ちまして閉鎖
いたすことになりました。
温かいご支援有難うございました。心より厚く御礼申し上げます。
    
                   「びんごe商店街」 事務局長 福川喜巳枝
 
びんご 古城散策・田口義之

◆中根城と藤岡三郎左衛門
                                (福山市春日町能島) 〈267〉

中根城址の現状
 今から十二年程前のこと、坪生に住む会員から、能島の「ウネ城」が壊されそうなので見に来て欲しい、という連絡があり、現地を訪ねたことがある。
 そこはニュータウン「春日台」から西に伸びた丘陵の突端で、大きな農家の裏山にあたり、頂上の百坪ほどの畑の周りが一段切り下げられ「帯曲輪」状になっていた。後世の変形が激しく、「確かに中世の城跡」だという確証は得られなかったが、地名と立地から見て、江戸時代の文献に「中根城」として紹介されている場所に間違いないと思えた。その後、市教委が行なった試掘調査では明確な遺構や遺物が出土せず(福山市文化財年報32)、開発申請どおり宅地開発され、今では住宅地となっている。
 さて、この中根城(ウネ城とも言う)と前回紹介した「沖之城」との関係だが、本城、支城の関係にあったと見て間違いない。前回考察したように、沖之城はその名のとおり沖に浮かぶ小島を利用して築かれた海城だが、比高が低く、遠方への見通しが利かない。それに対して中根城は比高三十メートルの高所を占め展望が利く。さらに、たとえ沖之城に籠城したとしても背後の丘陵を敵が占領すれば、沖之城は城内を俯瞰され落城は必至である。
 このように中根城と沖之城は密接な関係を持って存在したと考えられ、したがって城主とされる藤岡三郎左衛門尉治成も、沖之城の能島氏と主従に近い関係であったことが想像される。
 両者の関係を示す資料は残っていないが、沖之城の能島氏が「能島」の在名を名字としていることから地域の土豪と考えられ、藤岡氏はその配下にあった人物と推定される(春日村略史もこの説を採っている)。
 能島氏に関しては、在地武士と考えられると共に、その居城が海城(海賊城)であることから、村上氏の惣領家「能島」村上氏との関連も捨てがたい。
 沖之城に関する伝承を見ると、能島三郎正信が没落した後、塩飽帯刀の家老塩飽五兵衛尉なる人物が、能島氏跡の所領を押領して沖之城に居城したという(西備名区など)。
 塩飽氏は、言うまでもなく塩飽諸島を根拠地とした村上氏と並ぶ瀬戸内海の海賊衆である。塩飽氏が拠ったとされる山城は引野にも存在し、この辺りまで塩飽海賊衆の勢力が及んでいたとしても不思議ではない。
 さらに、塩飽海賊衆は早くから織田、豊臣氏に従っており、天正十八年(一五九〇)、秀吉から御用船方に任命され、江戸幕府もこれを踏襲して御用船方に塩飽七島一二五〇石を安堵している。これが有名な「人名」だが、このように早くから中央政権に従った塩飽氏に対して能島村上氏は徹底的に反抗し、秀吉の「海賊禁止令」によって陸地に追いやられた。
 こうして見ると、豊臣氏の直轄領の代官としては塩飽氏の方が相応しいようであり、伝承には混乱がある可能性もある。

備陽史探訪の会
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